目を開けているのか閉じているのか、そんなことも解らなくなっていた。ただ辺りは白く、瞼を動かしてもなにも変わらないのだった。一定の速度の電子音が遠くから聞こえた。そしてまた私は眠る。

 

 初めて目を覚ましたのは少し前のことだ。そのとき私は今使っているこの言葉というものの事すら知らなかった。見えたのは今も変わらない白い天井と私を覗き込む幾対かの目だった。右手が妙に暖かで、原因を見極めようとそちらを見ようとすると体が痛くて動かなかったのを覚えている。私の右目は塞がれていて、そちらを見ることは叶わなかった。今でも、それは白いガーゼに覆われた儘なのだ。

 暖かさの原因はナツミだった。彼女はわたしと同い年の女の子で、クラスメイトで、同じ文芸部に入っていた、と、そう言った。だが私は、その学校というそのものが未だよく解らない。私には、記憶がないのだそうだ。

 私の想い出のスタートは確かに白い天井で、それ以前のことはどれほど考えても無い様に思える。今思考に使っているこの言葉だって、その白い天井のあと、ゆっくりと得てきた物である。私は、あのとき生まれたのだ。

「トウコ」

 ふ、とナツミが私の名を呼んだ。今日は昔の文芸部の本を持ってきたよ、トウコの書いた小説も載ってる。

「私、この話好きなんだ」

「こういうときは、なんて言えばいいのかなあ」

「ありがとう、で、いいんじゃない?」

「有り難う」

 彼女は楽しそうに笑って、なんだかそのひねくれた言い方昔のトウコみたいよ、と言った。やっぱり思い出すのかな、しゃべり方とか、癖。そんな風に言うので、思い出したことなんかなんにもないよと本当のことだけ伝えると、すこし悲しいような、憮然としたような表情を作って、知ってるもん、とだけ呟いた。

 カーテンが揺れている。私の四肢はまだ包帯に包まれてはいるけれど、それでも一時よりは随分ましになった。彼女の黒いセーラーカラーも風に靡けばいいのに。

「それでも、さ」

 日に透けて美しい彼女の髪の茶色。

「沢山、喋れるようになったよ。字も読めるようになったじゃない。ちょっと前まで全然だったのに。やっぱり、それは思い出したって事なんだと思うよ」

 ふうん、と、口先だけで返して置いた。

 彼女が置いていったのは薄っぺらい藁半紙の本で、何枚かを束ねて真ん中をホチキスで止めたような簡単な作りだった。表紙にだけ少し斑のある山吹色の紙が使われている。でんきゅう、とタイトルが書かれていた。彼女が持ってくる本のタイトルは何時も「でんきゅう」で、それが文芸部に代々受け継がれている名前なのだと教えてくれた。その中にもいろいろあって、昔トウコが面白いと言ったから、と言って恐ろしく古い部誌を持ってくることもあった。タイトルは同じなのだが、全てが手書きなのに時代を感じる。ページを開く度に、劣化した紙がぱり、と音を立てた。

 今回彼女が持ってきたのは最近の物のようで、まだまだ読みやすい部類だった。ワープロの堅いフォントで私の名という記号が、黒々刻印されている。とても短い話だった。遠い未来の話だった。

 私の毎日は白の内に始まり白の内に終わる。朝目を覚まし、朝食をとりリハビリをし、昼食の後、三日おきほどに見舞いにやってくるナツミと喋る。腕や足のギブスは少し前に取れたのだが、筋肉だか神経だかがどうにかなっているとかで練習が必要なのだそうだ。普段は腕に添うて固定する杖を使い歩けるのだが、じきに杖を着かなくても大丈夫なように、と先生方は言う。私はこの淡い銀色の杖がすこし、気に入っているのだけれど。徐々に包帯は解かれ、糸は抜かれていく。私の右目に張り付いたガーゼだけは相変わらずそのままだったけれど。

「それ、まだ取れないの」

 相変わらず見舞いに来ていたナツミが言う。私の髪を櫛でけずりながら。随分伸びたね、うん。うしろ刈り上げたみたいな頭してたのにね。うん。私の知らないわたしのことを。伸びた髪は丁度私の記憶に重なる。頸を隠して、鎖骨の下辺りまで落ちて行く黒。つややかな夜の色。

「ねえ訊いても良い?」

「何を?」

「私は、どうしてこんなに傷まみれなの」

 髪を梳く手が一瞬留まった。開け放たれた窓の向こうからは蜂蜜のような日光が差し込む。子供の声がする、確かここは道路挟んで向かい公園なんだよな。カキン、と、音がした。これは何のおとなのだろう。

「トウコは、殉じたんだよ」

 えっと思わず聞き直す。櫛を持つ手はまだ止まったままだ。振り返り彼女の顔を見ようとすれども、俯いていて見えない。

「私は昨日のことのように覚えているよ、塔子が放課後の廊下で言ったこと。文芸部の締め切り前で遅くまで残った帰りだった。窓から月の光が射し込んできていて、遺跡の回廊みたいな景色だった。前を向いて、言ったよ。背にした窓から、低く昇った赤くて大きな月が見えて、天使のわっかみたいだった。本当に、宣言をするみたいに、厳かに言った。

『私は、もう、成長したくない』」

「……、それで、私はどうした」

「『飛ぶよ、奈津実見ておいで』って私の方に手を伸ばしてくれたけど、わたしはそのとき塔子に見とれて、だって塔子がとても綺麗だったから。とてもとても美しかったから。私がぼんやりしてると笑って、手は軽く挙げたままで、開け放された窓から背中を投げ出すように落ちていったんだ。いつか、塔子の書いた小説みたいに」

「でも私は死ななかった」

 私は彼女の白い横顔を見ながら言った。まるで血の気の失せた彼女の顔の方が死人のようだった。

「ううん、塔子は死んだ。あなたは、塔子じゃない」

「じゃあ、わたしは、だれ」

「名前と姿が同じだもの。ああ、でもカタカナでトウコって感じかなあ、意味の抜け落ちた、音だけの、トウコ」

 またカキン、って音。今度は歓声。

「まるで死人みたいだ」

「塔子昔言ったねえ。人は二度死ぬ、一回目は生物としての死、二回目は誰も彼もがその人のことを忘れたとき、想い出が死ぬ」

「私は屹度、一回死んでまた生まれたのだ」

「でもあんたは塔子じゃない」

 じっと私の顔を見る、その目が憎しみすら孕んでいるように見えた。思わず彼女の顔を見返すと、直ぐニコリと笑って、林檎でも食べる? と言った。

 部屋の隅にある小さな冷蔵庫から赤い木の実を取り出し、小さな銀のナイフでくるくる、と剥いていく。また「でんきゅう」持ってきたよ。私凄くこの話好きでさ。線路を歩いて行くんだよ。そういう映画があるから今度見ようね。そういえばじき大人数の部屋にうつるんだよね、なんてどうでも良いようなことを言いながら、気づけば林檎は真珠に似た色で硝子皿に盛られて居た。フォーク出すよ、と身をかがめたナツミを、べつにいーよ手でと制して私は体を伸ばした。囓ると思ったよりずっと水気にあふれたそれからは気泡混じりの蜜が溢れて、私の顎や喉を汚した。そしてナツミが笑う。

「せっかちだなあ。ほら、フォーク」

「有り難う」

 二人で顔を見合わせて、ちょっとだけ、笑った。

 

 この病院はずいぶんと広い敷地に立っていて、小さいながらも裏庭のような物まであった。もう木々は葉を美しく染め上げ、気の早い奴などはひらひら其れを落としている。

「トウコが生きていたのは木のお陰だったんだよ」

 天気がいいからちょっと散歩しよう、とナツミが私を連れだしたのは午後過ぎで、私はいつもの銀の杖を抱えて拙いながらも歩を進めていた。

「どういうこと」

「トウコが落っこちたのは木の上だったの。しかも並木と垣根のあるところ」

「ふうん」

「落ちる途中で引っかかっていっぱい細かい傷こさえて目までやって、それでもスピード殺されて助かったの」

「ばかだね」

「ばかよ」

 俯くナツミの横顔は美しい。赤いセルフレームの眼鏡が日に透けて燃えている。白い色した肌は、暖かみを感じさせない。此処の天井のようだと思った。不思議に伸びた私の腕も、とても白かった。あちこちに、巻かれた包帯の色になじむほど。

 私と、ナツミの間を、黄色く変色した木の葉がゆっくりと落ちていく。風が吹いて、また。葉のこすれる音が聞こえる。私は立ちすくむ。私の書いた小説の幽霊のように。私は、死んでいるのかしら。

 その日も、「でんきゅう」を読みながら眠った。拍子を捲ったところに堅い筆致で、硝子の卵は物語を孕む、と書いてあって、ああ、これが由来なんだな、とぼおっとそんなことを考えた。相変わらず、私と同じ名前の女の子が小説を書いていた。

 枯れ葉の落ちてくる裏庭は私の気に入りになった。少し寒いけれど、自主的に散歩をするのはよいことだと医師は言ったので、わたしは誰にも邪魔をされずにそこにぼおっとしていることが出来た。柔らかく降り積もった枯れ葉の上に腰を下ろし、息をすると肺の中も冷えて行く。いつかの私が買いたという小説、本当だと思う。

 寝転がって空を見上げれば、遠近感の狂った左目に木々が魚眼レンズの雰囲気で映る。かさり、と音がした。ナツミが来たのだ。

「私の右目はもう見えないのだろうか」

 何時まで経っても外れないガーゼを押さえながら、ぽつりと呟いた。彼女と一緒に病室まで歩く。エレベーターも有るけれど、なるべく歩きなさい、と皆が言うので。

 生まれてからずっと左目のみの視界ではあるけれど、体になにか染みついているのだろう。遠近感の狂いはそれなりの物だった。

「ああ、だって枝、ささってたもん」

「そうか」

 返事をして、ベッドの上にぽさりと身を投げ出す。相変わらず白い天井が左目に浸みる。

「いい気味だ」

「なに?」

 ナツミの不穏なつぶやきを聞き流すことが出来なくて、寝返りを打つように彼女の方を向いた。彼女は泣いていた。両の目からぼろりぼろりと涙を零して。セルフレームの眼鏡が濡れて、粗製のガラスで出来ているように見える。

「ねえ、塔子を返してよ。私の塔子を返してよ」

「ナツミのじゃないよ」

「それでもいい、塔子」

 私の身に縋りながら、呼ぶのは私ではない女の子の名前。体を捻った拍子に眼鏡がカタン、と床に落ちた。私と同じ姿をした、飛び損ねた女の子の名前。格好悪いじゃん、そんなの。なかったことにしちゃいなよ。でも駄目なのだろう、塔子は多分、彼女の天使だったのだ、もしかしたら、神様であったかも知れない。

「塔子は返せない、けれども」

 この神を失った可哀想な女の子に、何か。

「私のこの右目をあげる」

 ナツミはまだ涙に濡れた目を此方に向けた。ガラス越しではわからなかった赤い細やかな血管が沢山通っていて、茶色じみた瞳と相まって細工された宝石のようだった。

「右目、」

「どうせもう見えないのでしょう。きっとこれは私の中に残された唯一の塔子の想い出なんだよ。塔子が塔子であるときになくした物の残骸なんだ。だから、これを、あげる。今ここで抉り出しても良いよ。気済むようにしたらいい」

 一息で言うと、ふ、と溜息を吐いた。ナツミは最初ぽかんとしていたが、ゆっくりと頭を振った。ううん、そんなことしてもらわなくたっていい。

「ただ、キスしてくれたらいい。私の右目に、キスを」

 そう言ってゆっくりと瞼を落とした。私はその薄い皮膚に接吻ながら思う。きっと塔子は、ナツミのことをさして愛して居なかったのじゃないだろうか。あの小説の、飛び降りた女の子のように。それは思いつき、というよりももっとゆっくりと私の中から浮かび上がってきて、思い出す、という名前で呼んだ方が良いような感覚だった。

 きっと彼女が愛していたのは、彼女だけで。それは私だってナツミだって多分そう、なのだけれど。

「ガーゼ、剥がして良い?」

 私が頷いた後、彼女の細い指先がそっとその薄い布きれに懸かった。テープを軽く引っ張ると何の抵抗もなく外れる。

「どうなってる?」

「濁って、いるよ」

 まるで電球みたいだ。そう彼女は言った。

 硝子の卵は物語を孕むというなら、私の右目の内にあるのは塔子の想い出。今度は彼女が私の右目に接吻た。そうだそうして持っていくと良い。

 私の名前はトウコ。いまやっと、この右目と引き替えに再び生まれたのだ。